ゆうりしんぶん 2024年8月号


うごく、ゆうりくん

2024年7月のゆうりくん

いやー、暑いです。
おとうさんが 今のゆうりくんと同じ小学5年生の時は1982年。
1982年8月の東京の最高気温(つまり年間の最高気温)が33.0℃。
8月の最高気温の平均が30.2℃だったそうです。
まぁ 1982年は「冷夏」だったそうですけどね、
猛暑の今年は それより5℃くらい暑いです。
よく言われる「産業革命期より1.5℃温暖化が進んでいる」というのは
一体何の話なんですかね。
1.5℃どころか、40年で5℃上がってるんですけどー?

ゆうりくんが、補助輪なしの自転車を初めて乗りこなしたのは
2018年6月24日。5歳になったばかり、代々木公園でのことでした。

それから6年たった2024年7月、11歳になったゆうりくんは
同じ代々木公園のサイクリングコースを爆走してました。
5歳のゆうりくんより 2倍生きてますので、パワーの差は歴然です。

暑いからか、週末なのに代々木公園の人出はまばら。
こんな暑い日に自転車に乗る人なんていないんですが、
貸し切りみたいな サイクリングコースを風を切って走るのは
めちゃめちゃ涼しくて気持ちがいいです。


小5 1学期終了

このゆうりしんぶんを 誰に向かって書いているのか?といえば、「未来のゆうりくんに向けて」です。
さて、未来のゆうりくん。あなたが小学5年生のころ、どんなだったか?についてのひとつの事実を書いておきます。

小学5年生のゆうりくんは、担任の先生から少しだけ心配されています。
「人の話を最後まで聞いていない」「興味がないことに対してがんばれない」ということについて心配されています。
家庭科に興味が持てず、「じゃがいもを持ってきてください」と伝えたのに持ってこないし、
「裁縫なんて、ボクはできなくてもいい」と思ってる。(たぶん、そう口に出して言っちゃってる)
持ち前の愛嬌ですべての局面を乗り切ろうとするけど、お友達は小学校高学年になって忙しくなり、
そろそろいい加減、ゆうりくんに構ってはあげられなくなる。
「みんなが助けてくれるから大丈夫」なんて考えずに、もうちょっとしっかりしたほうがいいですよ。
大まかにいうと、そういうことらしいよ。

んんんー、そうか。そうだねぇ... 確かに。
ねぇ、未来のゆうりくん。君は中学校ぐらいで、落ち着くのかな? そうだといいんだけど。


Duolingo

ゆうりくんのママは 外国語学習フェチ。 
とはいえ、ぜんぜんペラペラじゃないから、ママのすごさがまったくわからないのだけれど、
「外国語を学習する」ということについての関心・興味はかなり強い。
おとうさんが、アメフトをプレーした経験がないくせに、アメフトにすごく興味があるように。

で、ママは Duolingo というアプリで韓国語を勉強しはじめ(KPOPや韓流ドラマにはまったく興味がないはず)
それにつられて、ゆうりくんは Duolingo で英語を勉強しはじめました。
すごく真剣で、集中して、良くできていると思います。興味があることには強いね、きみは。
ゆうりくんは、目の前の人と競争するのが嫌いだから、Duolingo みたいに独学でゲームみたいに進められる教材が向いてるんだろうね。
PCゲームでも 海外の人とオンラインでチャットするのに 一生懸命 英語でコミュニケーション取ろうとしてます。
なかなかいいですよ。「英語は好きです」という人になってほしいです。


2024年7月19日の糸井さんのことば

ラーメン屋さんであろうが、フレンチのシェフであろうが、
お鮨の職人でも、お菓子づくりのパティシエでも、
材料の買付けから、下ごしらえから、料理、そして提供、
お客とのやりとり、片付け、なんなら後輩の指導…と、
やることがとんでもなくたくさんある。
どんな仕事でも、なかなか大変だとは思うけれど、
料理に関わる人たちのやっていることは、
一所懸命な人ほど「割に合わない」ようにも見える。
もちろん、いい加減に流してやってる人だって、
いないこともないのだろうとは思うけれど。
料理人たちが真剣にやっていることは
「損得」だけではとうてい続けられないものに思える。
ご本人たちは「これが仕事だから」とか、
「これしかできませんしね」なんて答えたりするけれど、
そういう「職業」を選択したからやっているというより、
そういう「生き方」を選んでやっているように見えるのだ。

料理人がわかりやすいから例に出したけれど、
いろんな仕事を真剣に丁寧にやっている人たちは、
みんなそれを「職業」としてやっているはずだけれど、
その人のまるごとを懸けた「生き方」を生きているのだ。
笑われるのを覚悟で、じぶんのことを言わせてもらうなら、
ぼくも、いまの「ほぼ日」でやっているあらゆることも、
それまでに職業としてやってきたつもりのことは、
実は、「そういう生き方」を選んで続けてきたのだと思った。

「職業」というと「その人間の社会的な生産活動」というような
とらえ方になる。
それをしていない時間は「私的」な活動をしていると、
なんとなく分けられているようだ。
しかし、料理人にしても、たとえば不肖イトイにしても、
ほんとうは純粋に私的な「わたし」であったことなどない。
よくも悪くも料理人は、ずっと「料理をする者の生き方」で
休みの日を過ごしているだろうし、
ぼくだって、なにか「ほぼ日」のためになることを探しながら、
天井をながめてあくびしたりしているのだ。

若い人たちに「大きくなったら、どんな職業につきたい?」
と訊いていた時代がずっと続いていたが、
これからは、「どんな生き方をしたい?」と訊いてみたらどうだろう。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
うまく言えた気がしてないが、大事なことを考えたような? 

2024年7月29日の糸井さんのことば

ここまで、この「今日のダーリン」を、
9500回くらい書いてきているらしいんだけど、
同じことも何度か書いていると思うんですよね。
無意識で書いていることもあるだろうけれど、
わかってて何度も書いていることもあります。

そのうちのひとつが「電線に止まっているトリ」の話です。
ぼくは、若いときに、「電線にとまっているトリはなぜ落ちないんですか?」という問いかけではじまる本を読んだことがあるんです。
その答えが、「落ちても飛べるから」というものでした。
いや、もちろん、落ちないのは、あのトリの足でぎゅっとつかまってるから
だと思いますよ、それはそうだ。
でも、「落ちても飛べるから」のほうが納得ですよね。
どうせ飛べるトリは、落ちるなんて考えてもいませんよね。
生まれたての赤ちゃんは立っていることができませんが、
だいたいの人は立っていて歩くことができます。
「人間はどうして立っていられるんですか?」とか質問されても、
同じように答えられると思います。
「倒れてもまた立てるから」そんなこと気にしないんです。
電線に止まっているトリは「落ちてもいい」んですよね。
立っている人間は「倒れてもいい」んですよね。
バレーボールの試合で1セットくらい「落としてもいい」、
次からのセットを取ればいいんですよね。
リーグ戦で強いチームはある程度の試合は「負けてもいい」んですよね。

つまり、「そこで終わりじゃないから」ということ。
電線のトリも落ちる瞬間はあるかもしれないけれど、
その次の瞬間にははばたいて飛んでるわけです。
人間が電線につかまっていた場合には「落ちたら大変!」なんですよね、
次の展開がなさそうで。

失敗したり、負けたり、おちこんだりしている人に、
正直いってかけられることばはないです、ぼくも。
だけど、「そこで終わりじゃない」ということだけは、
なんとなく思い出してくれるといいなぁとは思います。
常勝、完全、無敵、なんてことは絶対にないわけですから。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
勝負のあることって、相手も勝つことを強く願ってますしね。  


2024年7月30日の糸井さんのことば

「じぶんが大事にされる」ということを、人間は大好きです。
それはもう、生まれた瞬間の赤ん坊のときから
「わたしを大事にしてくれ」と泣き叫んでいるくらい大好きなことです。
ごはん食べる以上に好きかもしれない。
赤ん坊じゃなくて、子どもになってからも同じでしょう。
「子どもって、じぶんと遊んでくれる大人が好きです」と、
子どもと付き合いのある人から聞いたことがあります。

大人になってからも、そうですよね。
「わたしを大事にしてくれる」と思える人のことを、
たいていの人は好きだと感じるでしょう。
逆のことを考えたらわかりやすいですよね、
「わたしを大事にしてくれない」人からは、
離れたくなるのではないでしょうか。
人は「じぶんが大事にされる」ことがないと、
とてもさみしい思いになりやすいでしょう。

こんなふうに言うと、ずいぶん功利的に聞こえますが、
「じぶんを大事にしてくれる人」になってほしくて、
「人を大事にしている」ということも大いにあります。
逆に「わたしが大事にしている人」から、
「わたしが大事にされる」ということもうれしいものです。
むやみに、と言ってもいいくらい、
「じぶんが大事にされる」ということを、人は大好きです。
そして、この「人(みんな)が大好き」なことは、
ある意味、地位やお金で買えたりもするのです。
ある境遇になると、またたくさんお金を使う場面では、
たいてい「じぶんが大事にされる」ことになります。
これは、基本的にはうれしいことですから、
いつも「じぶんが大事にされる」状況にいたくなります。
ボスだとか、親分だとか、トップだとか、先生だとか、
人気者だとか、お金持ちだとか、というだけで、
「大事にされる基礎点」を持っていたりします。

人に「じぶんが大事にされる」ことは、
依存性のある薬みたいなものでもあります。
それなしにはいられなくなって道をあやまる人も、
たくさんいることは、みんなの知っている事実です。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
家や組織で大事にされてないような気がする人は幸いである。 

『おとうさんは、よくわからない。』
2024年7月号の ゆうりしんぶんの このコーナーでも書いたんだけど、
うーん... 今月も『おとうさんは、よくわからない。』よ。

とはいえね、「まったくもって 本当に全然 わからない」わけではないです。
糸井重里さんは「今日のダーリン」というエッセイを毎日書いていて、
おとうさんは殊勝にも ほぼ毎日読んでいます。欠かすことなく。
2024年7月の「今日のダーリン」は 7月の日数と同じ31本あったのに
3本だけを引用している時点で、ほかの28本の「今日のダーリン」については
もっと「わからない(どうでもいい)」という感想であったわけです。
3本の「今日のダーリン」を引用した理由は、
なにかしら「そうなんだよね」という共感を感じたからなのです。

純粋に私的な「わたし」であったことなどなく、
職業としてやってきたつもりのことは、「そういう生き方」を選んで続けてきた
というのはね、「そうなんだよね!」と思います。
でもまぁ、職業でなくてもね、11歳の子供のゆうりくんでさえ、
「ゆうりくんらしい生き方」を選んで続けているような気がするのです。 
ゆうりくんはもう 自分の生き方を選べる と考えれば、
何もおとうさんがやってあげるべきことはないのかもしれないです。
でも、おとうさんが「大切だ」と思うことを教えてあげたくもなるんだよね。

自分の生き方を選べている人は、「落ちてもいい」と思えるのかもしれません。
逆に「落ちたら大変!」というのは、自分で生き方を選べていないときに
感じるものなのかもしれません。
それでも、でも、だけど、自分の生き方を選べていたとしても
「今は落ちたくない」というタイミングはあるような気もするのです。
「今は落ちたくない」というところで、落ちたり、落ちなかったりすることで
人生のかたちが 結構ダイナミックに変わっていく、とでもいいますかね。
たしかに「落ちたところで死なない」し、
「落ちたくらいで 死ぬ必要はない」んだけど、
ずっと「 落ちてもいい」とだけ思っていられる人生というものも
無いんじゃないか、とか思います。
というわけでして、おとうさんは、よくわからない。

『家や組織で大事にされてないような気がする人は幸いである。』とかね...
わかるような気もするし、わからないような気もします。
"家や組織で大事にされない" イコール "幸いである" というのは、
確かにそういうケースもあるのかも知れんけど、
"家や組織で大事にされる" ことを放棄しなくてもいいような気はします。

少しくらい大事にされなくても問題ないよ、「落ちてもいい」んだよ
と言いたかっただけなんだろうな、と思うのだけれどね。


MUSIC

2024年7月のうごく、ゆうりくん の楽曲紹介

Bickleさんの ♬ "You Are The Man" です。

Bickleさんは すごいメロディメーカーだと思うんだけどな。
なぜかメジャーになっていかないですね。
でも、おとうさんは「好きなミュージックアーティストは誰?」
って聞かれたとしたら、かなり上位で Bickleさんの名前を挙げるよ。
♬ "Big Blues" とか ♬ "I Am Not Sorry" とか、大好きな曲だから
ゆうりくんがいい笑顔でいてくれた時の
うごく、ゆうりくん で使おうと思って とっておいてあるんだよ。


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『うごく、ゆうりくん』 プレイリスト


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